進化が教える、避けられない「トレードオフ」の物語
自然淘汰は生存と繁殖に有利な形質を残すはずです。しかし、男性型脱毛症(AGA)は、現代では心理的苦痛の原因となりうるにもかかわらず、非常に多くの男性に受け継がれています。その背景には、複雑な生物学的メカニズムと、壮大な進化の歴史が隠されています。
50歳までにAGAの影響を受ける男性の割合
70歳までに何らかの脱毛を経験する男性の割合
脱毛の直接的な原因は、テストステロンという男性ホルモンそのものではなく、そこから変換される、より強力なジヒドロテストステロン(DHT)です。このDHTが、遺伝的に感受性の高い頭皮の毛包に作用することで、毛髪のミニチュア化(軟毛化)が引き起こされます。
テストステロン
(男性ホルモン)
5αリダクターゼ
(変換酵素)
ジヒドロテストステロン (DHT)
(超強力男性ホルモン)
毛包の縮小
(ミニチュア化)
AGAは非常に遺伝性が高い形質です。単一の遺伝子ではなく、250以上の遺伝子が関与する多因子遺伝であり、これが発症年齢やパターンの多様性を生み出しています。特に重要なのは、母親から受け継ぐX染色体上にあるアンドロゲン受容体(AR)遺伝子です。
AGAが淘汰されなかった最も有力な理由は、「拮抗的多面発現」という進化のトレードオフです。DHTを生み出すアンドロゲンシステムは、人生の初期段階で男性の生存と繁殖に不可欠な「利益」をもたらします。その強力な利益と引き換えに、人生の後半で「代償」として現れるのが脱毛なのです。
AGAのコストは、主に男性の繁殖期が過ぎてから現れます。遺伝子を次世代に受け渡した後に現れる不利な形質に対しては、自然淘汰の力が弱まります。これを「淘汰の影」と呼び、AGAが遺伝子プールに存続することを可能にする重要な要因です。
AGAの進化については様々な仮説が提唱されてきましたが、科学的証拠に基づくと、その妥当性には大きな差があります。最も有力なのは、進化的トレードオフとその後期発症性です。
仮説 | 主張 | 妥当性 |
---|---|---|
拮抗的多面発現 | 脱毛は、繁殖に不可欠なアンドロゲンシステムの避けられない副産物である。 | 非常に高い (主要因) |
淘汰の影(後期発症) | 繁殖期後に発症するため、自然淘汰の力が及ばず、淘汰されにくい。 | 非常に高い (主要な実現要因) |
社会的成熟シグナル | 年齢や地位のシグナルとして機能し、有利だった可能性がある。 | 低い (二次的/文脈依存) |
ビタミンD合成 | ビタミンD産生を増やすための適応である。 | 非常に低い (支持されない) |